自己責任で片づけてはいけない その3

勿論、みんながみんな特長を活かして他者に貢献することは難しいことです。

中には表面上、何の貢献もできていない人がいるかも知れません。そもそも他者への貢献というのはどんな形で成し遂げられるものかは予め分かりません。良かれと思ってやったことが、ある人にとっては迷惑であったり、人を不幸にしてしまうこともあるのと思います。

中国の砂漠に木を植えるという良い活動も、木の選定を誤ったために、逆に地下水を枯らしてしまい、砂漠化が進行してしまったということもあるのです。また、誰しもが知っている有名な画家のゴッホが生きている間は、それこそ表面上何の価値も生み出しておらず、彼の生涯で売れた絵は1000円程度だったそうです。今で言う生産性のない人間ということになりますが、彼の死後、多くの人に評価され、今は1枚100億の値がつくこともあります。

有名な哲学者のニーチェも彼の集大成である著書「ツァラトゥストラ」4部作はほとんど売れず、最後の4部目はあまりにも売れなかったために、ニーチェ自身が「どうかもらってくれ」と配り歩いたほどですが、彼も死後に評価され、今はニーチェという名前を知らない人はいないでしょう。人間の価値をお金で評価するということの無意味さをよく示している例です。

アリやハチの社会でも、働かない個体が一定数います。生産性のない個体を自然界は許容しています。
なぜかというと常に働いてしまう働きバチだけだと、不測な事態で働きハチが働けなくなった時、集団として欠かせない働きを維持することができずに、その集団は絶滅してしまいます。そんな時、働いていなかったハチが一定数いれば、代わりに働くことで集団を存続させることができるのです。

日本でも、東日本大震災の時に、ボランティアとして多くのニートやフリーターが活躍したそうですが、みんなが常に定職を持って余裕なく働いていれば、不測の事態に社会を維持することが難しいということを表しています。

「弱き人を助けることは、強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。」

これは今、映画化され歴代興行収入1位になることが確実視されるほどの大人気漫画「鬼滅の刃」に登場するキャラクター「煉獄杏寿郎」の母が生前に幼き杏寿郎に語った言葉です。

杏寿郎はこの言葉を心に刻み、自らを鍛えぬき、真っ直ぐに生きます。そして人間の欲望に根差した鬼からの誘惑を歯牙にもかけず、弱き人を助けるために文字通りその使命を全うします。その生き様は魂を揺さぶられるほどに尊くカッコいいのです。

映画の大ヒットは鬼と戦う煉獄杏寿郎や主人公たちの生きる姿のカッコ良さに人々が憧れを抱いた結果でしょう。

複雑に絡み合ったこの世界において、短い時間軸の中でしか生きられない私たちが人の価値を推し測ることなど不可能であり、学力やお金を稼ぐ能力といったモノサシで、人間の優劣を決めることは愚かなことでしょう。

だからこそ、自己責任の言葉の下、弱者を切り捨てる強者の姿勢は、人間として恥ずべきものです。煉獄杏寿郎とは真逆の価値観であり、すなわち鬼側の価値観だと言えます。

今、社会的に強い立場なのであれば、弱き者を助けることは責務であり、責任を持って果たさなければならない使命なのです。

自己責任で片づけてはいけない その2

障がい者も、貧困家庭で育った人も、勉強が苦手な人も、商売が下手な人もお金を稼げないのは自己責任だ、努力が足りないからだと片づけてしまって良いのでしょうか?

パラリンピックでは障がい者同士で、ある程度ハンディを揃えた環境で競技を行っています。貧困家庭で育つと、親の教養が少ないことや、教育にかけられるお金が少ないことで、知識や知能の発達において遅れがでることは明らかです。

また、以前のブログでも触れましたが、勉強のできるできないは6~7割は遺伝で決まることが行動遺伝学の研究で示されており、学歴偏重社会の現代では、勉強のできるできないが収入の多い少ないに結びついてしまっています。

生まれた時にすでにハンディがあるにも関わらず、同じ土俵で競わせておいて、貧困は自己責任だと言う社会は、障がい者にハンディキャップを与えずに健常者と競争をさせているようなものです。

しかもオリンピック競技なら負けても死に直結することはありませんが、実社会での競争では、負けると飢えて死んでしまったり、悲観、絶望といった負の感情の蓄積により自死を選んでしまうことすら現実に起こってしまっています。

多様な人が人間社会という枠組みの中で何かしらの影響や協力の仕合いで生きているのが、現代社会です。

物事に得手不得手があるのは当たり前です。
絵が上手な人、物語を作るのが上手な人、工芸品など手仕事の上手な人、自然観察眼に優れた人、物事の道理に関心が高く探求心がある人、共感能力が高く人に優しく接せられる人、身体能力が高くスポーツなどで人に感動を与えられる人、コツコツと単純作業を繰り返せる人、色んな人が生きています。

多様な人がそれぞれの特長を活かして、周りの人の生活に貢献することこそが人間社会ではとても大切だと思うのです。

アヒル

偏差値教育が日本社会の崩壊を招いている

偏差値教育がいつから行われてきたのでしょうか。

wikipediaによると1960年代の中頃から社会に広まりだし、1970年代前半から全国津々浦々、予備校が実施する全国模試や学習塾で広く使われだしたようです。

しかし、偏差値の生みの親である桑田昭三氏は次のように語っています。

「生徒の能力を決めてしまうことにつながりかねないため、開発当初も、啓蒙時も、偏差値は生徒に知らせるべきでないと考えていた。しかし、偏差値は生徒に努力目標を明確にさせるのに便利であり、多くの学校教員は、生徒に自分の偏差値を知らせた。結果、学力偏差値が悪者扱いされてしまったことを、心底残念に思っている」
開発者も語るように、偏差値は学力という人間の能力の一つに過ぎないもので人の価値を評価してしまい、学歴カーストを生む温床となってしまっています。

偏差値というモノサシがあることで、偏差値の低い人は劣等感を植え付けられ、他人への妬みや嫉み、他者の失敗を喜ぶ負の感情を生み出してしまいます。これには人類の進化上の必然性があります。どういうことか説明します。

サルは隣のサルと自分を比較して、相手が自分より良い状態、例えば自分より餌が多くもらえている状態を認識すると、不公平感を感じて怒りだします。しかし、自分の隣にいない相手がどういう状態であるかについては気になりません。

一方、サルから進化した人間は、集団全体としての平均という概念を獲得した結果、自分が集団の平均以上でありたいという欲求が生まれました。それ故に、偏差値というまさに集団の平均値からの差を見える化してしまったことで、サルが隣のサルに不公平感を感じて怒りだすのと同様に、偏差値が50より低い人は上位の人に対して妬みや嫉みといった負の感情を覚えてしまうのです。

さらに学歴カーストがそのまま所得格差に直結してしまう現代社会では、偏差値が低い人にとって、常に不平不満や怒りを抱きやすい状態にあると言えます。

これでは、日本人が共同体感覚を育み、社会や他者のために貢献し働くという意識が醸成されることはないでしょう。それどころか、他者を仲間ではなく競争相手と認識し、いかに相手よりいい生活、高い所得、高い地位や名誉を得るかというポジション争いに固執してしまっています。

さらにはネットを中心に、他人を非難したり誹謗中傷したりといったヘイトであふれ、格差と分断により日本社会は急速に崩壊へと突き進んでいるように思えます。

もちろん偏差値教育だけが問題ではないのですが、明らかに日本社会にとって負の側面が強すぎるため、問題提起として書きました。

当然、学歴カースト上位の人にとってはある意味既得権益の根幹をなすツールであるため、反発が予想されますが、このままヘイトに満ち溢れた社会になれば、学歴カースト上位の人にとっても望ましい未来ではないでしょう。

日本の農耕社会とは、アメリカ型の個人の責任において自由を得て個人としての幸福を目指す社会とは異なり、弱者でも何かしらの仕事があり、協力して生きる社会でした。

日本人はスポーツなどでも顕著なように、チームプレイが得意であり、それは農耕社会として続いてきた歴史が長いおかげです。偏差値教育により加速した学歴カースト上位の人たちが理想とするアメリカ型の新自由主義的な社会システムを日本に当てはめてしまっては、日本人としての良さが発揮されず、国家として衰退してしまっている現状は必然でしょう。

先人の努力の上に成り立つ豊かな社会を享受する私たちにとって、より良い社会を未来につなぐことこそ人生の意味であり、責務だということをみんなが認識することが大事です。

そのためにも、偏差値教育よりも、社会全体や他者への貢献こそが大事だという教育が行われる世の中に変わっていって欲しいです。

あしもり遊学舎では、学力偏重ではなく、他者を思いやる心を育て、他者貢献を何よりも大切にし、誰もが活躍できるまちづくりを目指しています。