葦の森展

2021年の葦の森展にて出店しました!
多くのお客様に来て頂き、誠にありがとうございました!

今後ともどうぞよろしくお願いします。

自己責任で片づけてはいけない その3

勿論、みんながみんな特長を活かして他者に貢献することは難しいことです。

中には表面上、何の貢献もできていない人がいるかも知れません。そもそも他者への貢献というのはどんな形で成し遂げられるものかは予め分かりません。良かれと思ってやったことが、ある人にとっては迷惑であったり、人を不幸にしてしまうこともあるのと思います。

中国の砂漠に木を植えるという良い活動も、木の選定を誤ったために、逆に地下水を枯らしてしまい、砂漠化が進行してしまったということもあるのです。また、誰しもが知っている有名な画家のゴッホが生きている間は、それこそ表面上何の価値も生み出しておらず、彼の生涯で売れた絵は1000円程度だったそうです。今で言う生産性のない人間ということになりますが、彼の死後、多くの人に評価され、今は1枚100億の値がつくこともあります。

有名な哲学者のニーチェも彼の集大成である著書「ツァラトゥストラ」4部作はほとんど売れず、最後の4部目はあまりにも売れなかったために、ニーチェ自身が「どうかもらってくれ」と配り歩いたほどですが、彼も死後に評価され、今はニーチェという名前を知らない人はいないでしょう。人間の価値をお金で評価するということの無意味さをよく示している例です。

アリやハチの社会でも、働かない個体が一定数います。生産性のない個体を自然界は許容しています。
なぜかというと常に働いてしまう働きバチだけだと、不測な事態で働きハチが働けなくなった時、集団として欠かせない働きを維持することができずに、その集団は絶滅してしまいます。そんな時、働いていなかったハチが一定数いれば、代わりに働くことで集団を存続させることができるのです。

日本でも、東日本大震災の時に、ボランティアとして多くのニートやフリーターが活躍したそうですが、みんなが常に定職を持って余裕なく働いていれば、不測の事態に社会を維持することが難しいということを表しています。

「弱き人を助けることは、強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。」

これは今、映画化され歴代興行収入1位になることが確実視されるほどの大人気漫画「鬼滅の刃」に登場するキャラクター「煉獄杏寿郎」の母が生前に幼き杏寿郎に語った言葉です。

杏寿郎はこの言葉を心に刻み、自らを鍛えぬき、真っ直ぐに生きます。そして人間の欲望に根差した鬼からの誘惑を歯牙にもかけず、弱き人を助けるために文字通りその使命を全うします。その生き様は魂を揺さぶられるほどに尊くカッコいいのです。

映画の大ヒットは鬼と戦う煉獄杏寿郎や主人公たちの生きる姿のカッコ良さに人々が憧れを抱いた結果でしょう。

複雑に絡み合ったこの世界において、短い時間軸の中でしか生きられない私たちが人の価値を推し測ることなど不可能であり、学力やお金を稼ぐ能力といったモノサシで、人間の優劣を決めることは愚かなことでしょう。

だからこそ、自己責任の言葉の下、弱者を切り捨てる強者の姿勢は、人間として恥ずべきものです。煉獄杏寿郎とは真逆の価値観であり、すなわち鬼側の価値観だと言えます。

今、社会的に強い立場なのであれば、弱き者を助けることは責務であり、責任を持って果たさなければならない使命なのです。

自己責任で片づけてはいけない その2

障がい者も、貧困家庭で育った人も、勉強が苦手な人も、商売が下手な人もお金を稼げないのは自己責任だ、努力が足りないからだと片づけてしまって良いのでしょうか?

パラリンピックでは障がい者同士で、ある程度ハンディを揃えた環境で競技を行っています。貧困家庭で育つと、親の教養が少ないことや、教育にかけられるお金が少ないことで、知識や知能の発達において遅れがでることは明らかです。

また、以前のブログでも触れましたが、勉強のできるできないは6~7割は遺伝で決まることが行動遺伝学の研究で示されており、学歴偏重社会の現代では、勉強のできるできないが収入の多い少ないに結びついてしまっています。

生まれた時にすでにハンディがあるにも関わらず、同じ土俵で競わせておいて、貧困は自己責任だと言う社会は、障がい者にハンディキャップを与えずに健常者と競争をさせているようなものです。

しかもオリンピック競技なら負けても死に直結することはありませんが、実社会での競争では、負けると飢えて死んでしまったり、悲観、絶望といった負の感情の蓄積により自死を選んでしまうことすら現実に起こってしまっています。

多様な人が人間社会という枠組みの中で何かしらの影響や協力の仕合いで生きているのが、現代社会です。

物事に得手不得手があるのは当たり前です。
絵が上手な人、物語を作るのが上手な人、工芸品など手仕事の上手な人、自然観察眼に優れた人、物事の道理に関心が高く探求心がある人、共感能力が高く人に優しく接せられる人、身体能力が高くスポーツなどで人に感動を与えられる人、コツコツと単純作業を繰り返せる人、色んな人が生きています。

多様な人がそれぞれの特長を活かして、周りの人の生活に貢献することこそが人間社会ではとても大切だと思うのです。

アヒル

自己責任で片づけてはいけない その1

人の物を盗むのは悪いことです。しかし、食べるものがなくて死にそうな子供がいたとして、生きるために食べ物を盗んだ子供を責めることは果たして正しいことなのでしょうか。

食べるものがないほどの貧困に陥った子供がいるにも関わらず、毎日豪遊している資産家がいることの方が社会として健全ではないと思うのです。

盗みをすることは悪いことです。なぜ悪いことなのか?盗んではいけないというルールがあるからでしょうか?そうではなくて、盗まれた人が嫌な気持ちになるとか、困るとか、そういうことではないでしょうか。

もし、どうしてもお腹が空いていて、分けて欲しいとお願いされたら、快く分けてあげるでしょう。もらった人も感謝の気持ちで「ありがとう」と言えるし、分けてあげた人も感謝されて、うれしい気持ちになるでしょう。それを黙って盗んでしまえば、そういった正の感情が生まれず、相手を非難するとか罪悪感といった負の感情が生まれてしまいます。

だから、社会のルールとして、盗みはやってはいけないことになっていたのだと思うのです。その認識が今は変わってしまっているのではないでしょうか。「ルールだから盗みはしてはいけない」という認識だとすれば「ばれなければやっていい」という考えも生まれてしまいます。

富の偏りや格差により子供が盗みをせざるを得ない環境であるとか、子供が「盗みをしてもばれなければいい」と思ってしまっている環境を生み出している社会全体に問題があると思います。

弱者を助けない社会はあなたが生きづらい社会です

困っている人を助けることが、あなたの生きる力を生みます。なぜなら、他者との信頼関係が生まれ、仲間が増えるからです。

知識は人類が長い年月をかけて積み上げてきた共有物です。
本当のインテリは社会インフラによって習得したその知識をもって、社会に恩返しをするのが当たり前だという感覚が昔はあったのだと思います。

インテリが私利私欲のためだけにその知識を使うことは恥ずべきことで、浅ましいという感覚さえありました。
しかし、新自由主義のイデオロギーに染まりつつある日本社会は、自称インテリが平気で自己責任論を言い放ちます。そんな人はインテリなんかではありません。

突然の事故で誰しも障がいをもつ可能性があり、弱者を助けない社会は誰にとっても生きづらい社会です。

子どもはしっかりとその鋭敏な本能的感覚で大人がつくる生きづらい社会を見ています。

若者の死因の第1位が自殺です。他者が仲間ではなく競争相手だと思わされ、困った時に助けてくれる存在が乏しく、強くなければ生きていけないこの社会は、生まれてこなければよかったとさえ思ってしまう残酷な社会です。

そんな残酷な社会を変えたいという想いから、立ち上がったある政治運動をドキュメンタリー映画にした作品があります。「れいわ一揆」です。

その主演者である重度障がい者の木村英子さんがコメントを読んでこのブログを書いています。

https://youtu.be/Yg5e6fcFsO少し前に以下のyoutubeで聞いた木村英子さんの自分の子供とのエピソードが今の社会を物語っています。

大きな車いすに乗っている自分のことを格好いいと言ってくれていた子供が小学校に入ったとたんに「お母さん、恥ずかしくないの?」と聞いてきたそうです。

障がい者は恥ずかしい存在だと思わされてしまうのが今の日本社会なのです。
重度障がい者にも関わらず国会議員になって訴えないといけない社会は本当に生きづらい社会なのだと思います。

この映画は一部の大都市の小さなシアターでしか上映されていないのですが、生きづらい社会を脱するきっかけになると思います。

足守にはももぞの学園という障がい者施設があります。

障がい者でも分断されることなく、共に生活し、自分ができる範囲で誰かのために生きることができる、やさしい社会を実現するためにも、足守でいつの日かぜひとも上映したいと思います。

偏差値教育が日本社会の崩壊を招いている

偏差値教育がいつから行われてきたのでしょうか。

wikipediaによると1960年代の中頃から社会に広まりだし、1970年代前半から全国津々浦々、予備校が実施する全国模試や学習塾で広く使われだしたようです。

しかし、偏差値の生みの親である桑田昭三氏は次のように語っています。

「生徒の能力を決めてしまうことにつながりかねないため、開発当初も、啓蒙時も、偏差値は生徒に知らせるべきでないと考えていた。しかし、偏差値は生徒に努力目標を明確にさせるのに便利であり、多くの学校教員は、生徒に自分の偏差値を知らせた。結果、学力偏差値が悪者扱いされてしまったことを、心底残念に思っている」
開発者も語るように、偏差値は学力という人間の能力の一つに過ぎないもので人の価値を評価してしまい、学歴カーストを生む温床となってしまっています。

偏差値というモノサシがあることで、偏差値の低い人は劣等感を植え付けられ、他人への妬みや嫉み、他者の失敗を喜ぶ負の感情を生み出してしまいます。これには人類の進化上の必然性があります。どういうことか説明します。

サルは隣のサルと自分を比較して、相手が自分より良い状態、例えば自分より餌が多くもらえている状態を認識すると、不公平感を感じて怒りだします。しかし、自分の隣にいない相手がどういう状態であるかについては気になりません。

一方、サルから進化した人間は、集団全体としての平均という概念を獲得した結果、自分が集団の平均以上でありたいという欲求が生まれました。それ故に、偏差値というまさに集団の平均値からの差を見える化してしまったことで、サルが隣のサルに不公平感を感じて怒りだすのと同様に、偏差値が50より低い人は上位の人に対して妬みや嫉みといった負の感情を覚えてしまうのです。

さらに学歴カーストがそのまま所得格差に直結してしまう現代社会では、偏差値が低い人にとって、常に不平不満や怒りを抱きやすい状態にあると言えます。

これでは、日本人が共同体感覚を育み、社会や他者のために貢献し働くという意識が醸成されることはないでしょう。それどころか、他者を仲間ではなく競争相手と認識し、いかに相手よりいい生活、高い所得、高い地位や名誉を得るかというポジション争いに固執してしまっています。

さらにはネットを中心に、他人を非難したり誹謗中傷したりといったヘイトであふれ、格差と分断により日本社会は急速に崩壊へと突き進んでいるように思えます。

もちろん偏差値教育だけが問題ではないのですが、明らかに日本社会にとって負の側面が強すぎるため、問題提起として書きました。

当然、学歴カースト上位の人にとってはある意味既得権益の根幹をなすツールであるため、反発が予想されますが、このままヘイトに満ち溢れた社会になれば、学歴カースト上位の人にとっても望ましい未来ではないでしょう。

日本の農耕社会とは、アメリカ型の個人の責任において自由を得て個人としての幸福を目指す社会とは異なり、弱者でも何かしらの仕事があり、協力して生きる社会でした。

日本人はスポーツなどでも顕著なように、チームプレイが得意であり、それは農耕社会として続いてきた歴史が長いおかげです。偏差値教育により加速した学歴カースト上位の人たちが理想とするアメリカ型の新自由主義的な社会システムを日本に当てはめてしまっては、日本人としての良さが発揮されず、国家として衰退してしまっている現状は必然でしょう。

先人の努力の上に成り立つ豊かな社会を享受する私たちにとって、より良い社会を未来につなぐことこそ人生の意味であり、責務だということをみんなが認識することが大事です。

そのためにも、偏差値教育よりも、社会全体や他者への貢献こそが大事だという教育が行われる世の中に変わっていって欲しいです。

あしもり遊学舎では、学力偏重ではなく、他者を思いやる心を育て、他者貢献を何よりも大切にし、誰もが活躍できるまちづくりを目指しています。

アヒル農法を実践して感じたこと

アヒルは生き物であり、田んぼという自然環境で生き物を飼育するということは様々な不確定な要素が含まれています。自然環境というのは、基本的に人間が思ったようにはいきません。一年目は購入したヒナは20羽でしたが、生育不良や原因不明で死んでしまったり、夜にイタチに襲われてしまったり、最終的に残ったのはわずか3羽でした。

2年目は1年目の反省を活かして飼育した結果、現在18羽のヒナが14羽となっています。アヒルの飼育については1年目に比べると順調にいきましたが、稲の苗がアヒルに倒され、大量発生した水草に絡まり、起き上がらずに3割程度が欠株になってしまいました。

私は10年間、有機農家として、米や野菜を育ててきましたので、このようなことはある意味当たり前です。自然環境と隔離し、機械によって管理している工業製品ですら、一定の割合で不良品が発生するのですから。自然環境下で、アヒルという自由に行動する生き物を管理して、稲という生き物を育てることが、計画通りいく方がおかしいのです。こういったことを実感することは人間社会全体にとっても非常に重要です。原発が60年間に2度(チェルノブイリとフクシマ)も大事故を起こすこともある意味必然だとわかるからです。

また、別な視点でアヒル農法を見てみましょう。
アヒルという生き物を育て、それを肉にして食べるという行為は、私たちが日々当たり前に、牛や豚や鶏を食卓で頂いているということの意味を深く考えるきっかけになります。アヒルがお尻をふりふり歩く姿はとても愛らしく見えてしまいます。

牛や豚や鶏も実際に見るととても可愛い生き物です。日本人はクジラを食べますが、欧米から非難されます。ペットとして飼われることが多い犬や猫も他国では食べる地域もありますが、日本では食べません。(今では信じられないことですが、日本でも幕末まで猫を食べることもあったそうです。)では、毎日食卓にのぼっている牛や豚や鶏と、クジラや犬や猫の違いは何なのでしょうか?

犬や猫は食べたことがないので、わかりませんが、牛や豚や鶏は食べると非常に美味しく感じます。焼き肉屋が繁盛するのは、人間の美味しいものを食べたいという欲望(脂に中毒性があるらしい)のおかげです。私達は生き物を殺しているという事実を生活から切り離すことで、深く考えずに欲望のまま毎日食べているのです。

最近は、魚にも痛覚があるという見方が研究者の間で広がっているそうです。魚も命ある生き物です。もっといえば野菜も植物としての命があります。

自然界に生きるすべての動物は自分が生きるために必要な分しか殺して食べません。ところが人間は生きるために十分な栄養を得た上で、美味しいものを食べて楽しむという欲望によって肉を食べています。

人間は欲深い生き物です。だからこそ、せめて命を頂くことに感謝し、美味しく、大切に頂くということに尽きるのだと思います。昔から祖父や祖母が言っていたことがとても大事なことだったのです。祖父や祖母の生きていた時代は庭には鶏がいて、牛や馬を生活のために飼い、お祝いなどの特別な時にそれらを屠殺して、家族で感謝して頂くということが身近で行われていました。そのため、そのような想いに至ることが当たり前だったのです。現代の私達の社会は、家畜という生き物を食卓から遠く離すことで、命を頂くという有り難いことに感謝する気持ちをすっかり忘れてしまっています。それは肉に限らず、米や野菜、魚など食べ物すべてについても言えることです。
アヒル農法を子供たちと実践することで、命を頂くことの有難さも含めて、持続的な生き方を学ぶきっかけになればと思っています。食べる前に言う「いただきます」という言葉の大切さと共に命を頂く有難さを子ども達に伝えていきたいです。

(追記)一年目、私の娘(当時小学2年生)が生き残った3羽のアヒルに「リーダー」「班長」「副班長」という名前をつけてしまいました。私もその名前が妙に面白くて、そう呼んでしまっていたのですが、そのせいか、アヒルたちを食肉加工場に持っていく時に運転する車の中で涙が出てきてしまいました。
ところが、肉になった状態で受け取った時には、もうそれは食べ物としての肉にしか見えず、悲しさは湧いてきませんでした。
2年目は14羽もいるので、個々のアヒルを識別することが難しく、名前もつけていないため、涙が出るほどの感情は沸かないかも知れません。

(追記2)どんな環境やどんな餌で育てられたかもわからない生き物を食べ、自分の身体の一部にすることは、よくよく考えると怖いことかも知れません。自分たちで栽培した野菜や穀物などを中心とした餌を与え、のびのびとした自然環境で育てたアヒルを頂き、自分の身体の一部にすることは、考えていた以上に意味のあることのように思えてきます。

与えることから始めよう

これからの社会では、自然の中で子供を育てていくことが特に重要になってきます。

なぜなら、従来の詰め込み教育ではAIやロボットには絶対に勝てないからです。
もうすでにAI搭載の東ロボくんの偏差値は57.8です。

そして、3分の1の子供は母国語である日本語が正しく読めていないという衝撃な事実が明らかになっています。
https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/special/00261/?i_cid=nbpnb_tobira_191028_1

教育が悪いのかというと、実は学力の善し悪しは遺伝的要素が強いので、3割くらいの人にはそもそも向いていないのです。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/01/post-6659.php

とにかく大学行って、企業に就職して、サラリーマンとして言われた仕事をこなしていれば何とか食べていける時代は終わりました。

そのことを親が自覚しなければ子供の未来は開かれません。

昔は勉強が苦手なら、手に職つけて、大工や左官、工芸、料理人、農家、漁師、色んな選択肢から選ぶことが当たり前でした。

これからは、AIやロボットに出来ないことを磨いていくことが大切です。

手に職系の仕事で最も重要なのは感性であり、ロボットには感性はありません。

感性を磨くには自然の中で様々な体験をすることが一番です。

都会ではできない地方ならではの教育が地域の生き残りにも不可欠です。

そして、人は所詮一人では生きていけない非力で、弱い生き物です。
自分が生きていけるのは、この社会で働く多くの人のおかげです。

人と人とが力を合わせて一人では到底出来ないことを成し遂げる、これもAIやロボットには出来ないことです。

自分は与えられて生きていることを自覚するところがスタートです。
生きる理由が分からない人は、これまで与えられてきた分、まずは何かを与える、誰かを助けることから始めましょう。