偏差値教育が日本社会の崩壊を招いている

偏差値教育がいつから行われてきたのでしょうか。

wikipediaによると1960年代の中頃から社会に広まりだし、1970年代前半から全国津々浦々、予備校が実施する全国模試や学習塾で広く使われだしたようです。

しかし、偏差値の生みの親である桑田昭三氏は次のように語っています。

「生徒の能力を決めてしまうことにつながりかねないため、開発当初も、啓蒙時も、偏差値は生徒に知らせるべきでないと考えていた。しかし、偏差値は生徒に努力目標を明確にさせるのに便利であり、多くの学校教員は、生徒に自分の偏差値を知らせた。結果、学力偏差値が悪者扱いされてしまったことを、心底残念に思っている」
開発者も語るように、偏差値は学力という人間の能力の一つに過ぎないもので人の価値を評価してしまい、学歴カーストを生む温床となってしまっています。

偏差値というモノサシがあることで、偏差値の低い人は劣等感を植え付けられ、他人への妬みや嫉み、他者の失敗を喜ぶ負の感情を生み出してしまいます。これには人類の進化上の必然性があります。どういうことか説明します。

サルは隣のサルと自分を比較して、相手が自分より良い状態、例えば自分より餌が多くもらえている状態を認識すると、不公平感を感じて怒りだします。しかし、自分の隣にいない相手がどういう状態であるかについては気になりません。

一方、サルから進化した人間は、集団全体としての平均という概念を獲得した結果、自分が集団の平均以上でありたいという欲求が生まれました。それ故に、偏差値というまさに集団の平均値からの差を見える化してしまったことで、サルが隣のサルに不公平感を感じて怒りだすのと同様に、偏差値が50より低い人は上位の人に対して妬みや嫉みといった負の感情を覚えてしまうのです。

さらに学歴カーストがそのまま所得格差に直結してしまう現代社会では、偏差値が低い人にとって、常に不平不満や怒りを抱きやすい状態にあると言えます。

これでは、日本人が共同体感覚を育み、社会や他者のために貢献し働くという意識が醸成されることはないでしょう。それどころか、他者を仲間ではなく競争相手と認識し、いかに相手よりいい生活、高い所得、高い地位や名誉を得るかというポジション争いに固執してしまっています。

さらにはネットを中心に、他人を非難したり誹謗中傷したりといったヘイトであふれ、格差と分断により日本社会は急速に崩壊へと突き進んでいるように思えます。

もちろん偏差値教育だけが問題ではないのですが、明らかに日本社会にとって負の側面が強すぎるため、問題提起として書きました。

当然、学歴カースト上位の人にとってはある意味既得権益の根幹をなすツールであるため、反発が予想されますが、このままヘイトに満ち溢れた社会になれば、学歴カースト上位の人にとっても望ましい未来ではないでしょう。

日本の農耕社会とは、アメリカ型の個人の責任において自由を得て個人としての幸福を目指す社会とは異なり、弱者でも何かしらの仕事があり、協力して生きる社会でした。

日本人はスポーツなどでも顕著なように、チームプレイが得意であり、それは農耕社会として続いてきた歴史が長いおかげです。偏差値教育により加速した学歴カースト上位の人たちが理想とするアメリカ型の新自由主義的な社会システムを日本に当てはめてしまっては、日本人としての良さが発揮されず、国家として衰退してしまっている現状は必然でしょう。

先人の努力の上に成り立つ豊かな社会を享受する私たちにとって、より良い社会を未来につなぐことこそ人生の意味であり、責務だということをみんなが認識することが大事です。

そのためにも、偏差値教育よりも、社会全体や他者への貢献こそが大事だという教育が行われる世の中に変わっていって欲しいです。

あしもり遊学舎では、学力偏重ではなく、他者を思いやる心を育て、他者貢献を何よりも大切にし、誰もが活躍できるまちづくりを目指しています。

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